墓地の創設
明治に入り、近代的な軍隊を創設するにあたり、大阪を中心とした陸軍創設の方針によって大阪城周辺に兵部省役庁、大阪兵学寮、陸軍屯所、砲銃火薬製造局、軍医院が建設されていました。それにより相当数の兵士が大阪に集まることが想定され、兵役従事者の事故死者、病死者、戦死者、戦病死者のための軍の埋葬地を設けることが必要になり、最初に設立されたのが現在の当墓地となります。
明治3(1870)年の12月に大阪府が弁官にあてた「大阪府下真田山ノ内ヲ兵隊ノ埋葬地トナス」という一文が「太政類典」に記されており、これが真田山旧陸軍墓地について触れられている最初の史料となっています。その後、民部省、大阪府、兵部省、和歌山藩と弁官との間で調整が行われ、翌年4月にこの真田山の地が日本最初の陸軍墓地として成立しました。
明治4(1871)年、政府の方針により、陸軍の中枢は東京に移され、大阪には鎮台が設置されました。同時に墓地の管轄も同鎮台に移されましたが、それまでの数ヶ月は、軍中枢機関の埋葬地として機能していました。兵部省が大阪に置かれていた短い期間に、真田山旧陸軍墓地には既に10基の墓碑が立てられています。
当墓地内で最も死亡年月日が古いとされるのは、亡くなった下田織之助です。下田織之助は、山口県出身で陸軍の士官候補生として明治3年の秋に大阪兵学寮に入学しましたが、病気となり、同年12月に25歳の若さでなくなったとの墓碑に記されています。